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志賀 喜宏

あさか野窯 初代

大堀相馬焼十六代から あさか野焼初代へ。郡山で作る新しい伝統。

郡山のにぎやかな街中にある窯元「あさか野窯」。
二階建の元オフィスを改装した工房が、志賀さんの作業場兼教室です。
震災以前は浪江町で大堀相馬焼の16代目窯元として家業を営んでいました。
300年の歴史を持つ地元に根付いた伝統工芸の16代目から、陶芸文化のない新天地・郡山の初代窯元へ。
話してくれたのは、新たな地で新たな事を0から組み立てる楽しさと「伝統を守る」とは何かという信念でした。

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山から街へ、郡山の土との出会い
浪江町から二本松の仮設住宅に避難し、その後本宮で暮らしていた志賀さん。地元が帰還困難区域になり、事業の再開場所を探していました。
「やっぱり商売やるなら大きい街だべと。でも福島から離れるっていうのには大きな抵抗があった。それで郡山のどこかと思って探してたんだ。地元と違って、郡山は都市だから土地は小さく区切られてる。窯ができるくらいの広い場所をと思っていたときにここを見つけたんだ。
普通は「窯を持つ」ってなると、土や土地の広さを求めて郊外に窯を作る。もちろんここは元の工房よりは全然小さいけど、自分一人がやる分にはいいかなと思ってね。50年も山の中に住んでたんだから!若いうちは山で良いけど、歳もとったしこれからは街でもいいんじゃない?ってね(笑)」

郡山にはほとんど陶芸産地としての歴史がなく、一からの挑戦でした。今は物流があるからどこの材料でも手には入る。それでも郡山でやるからには、そこにあるものでその土地の焼き物を作りたい。そんな想いから郡山の土地の歴史を調べ始めます。そこで行き着いたのが、郡山は屋根瓦の産地であったという事実でした。
「俺もこっちに来てから勉強したんだけど、郡山っていうのは明治以降の街。鉄道が引かれてから物流の起点になった。それまでは小さな宿場町で、この辺はただの荒地。人も住んでなかったし、産業っていうのも明治以降のものがほとんどなんだ。
郡山の粘土の話なんか聞いたこともなかったんだけど、ある時、郡山にも粘土があるんだって話を聞いた。瓦屋さんの土だって言うんだ。俺が震災後に来たときには、世の中的にも屋根瓦の需要がなくなって、工場もほとんどが無くなってしまっていた。ただ明治から震災前までは工場が沢山あったらしい。それだけ産業になってたってことは、沢山の粘土が取れていたってこと。おそらく江戸時代に人が沢山いれば、郡山の土着の焼き物だって産業として出来てたんじゃないのかな。」
志賀さんはすぐに瓦屋さんに土を見せてもらいに行きました。
サンプルを貰いやってみたところ、「出来ちゃったんだな〜(笑)。ただし問題は粘土の中に砂が多かった。ふるいで振るって砂を取ってまた実験。そんでもう、完璧よ。」
郡山の瓦用の土は鉄分が多く、あさか野焼は焦げ茶の暖かく可愛らしい色合いを持っています。
「鉄分の多さは白い器を目指すなら、余計っちゃ余計なのかもしれない。でもこの色は郡山の土味で、郡山のらしさなんだと思うんだ。」

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生活に溶け込む、「今」のための器
志賀さんは現在あさか野窯初代として、他の伝統工芸とのコラボレーションや、大堀相馬焼伝統の二重構造の応用、現代のテーブルコーディネートを意識した器など、次々と新しいことに挑戦しています。
「我々の生活にも『流行り』ってものはあるし、食事も洋食化してる。かと思えば和食だって普通に食べる。そういうのに合わせたものを作ってるだけなんだ。深い意味はないっちゃないんだよ(笑)。」
「『伝統』って何だろうね。『伝統を守る』って『古いことをそのまま引き継いでやる』みたいなことではないと思う。明治時代の生活に合わせて作られたモノが、今通用する訳がない。使おうとは思えない、ってことは売れないってこと。売れないっていうことは、食えないってこと。仕事続けられないってこと。それじゃ『守った』ことにはならないべ。
守るっていうのは『仕事を継続してやること』だけなんだ。やる中身っていうのは、その時代時代に受け入れられるモノっていうのを作っていく。今は2,3年流行ってるかもしれないけど、また来年は違うかもしれない。『変わっていく』ってことだよね。同じものをずーっと作り続けることが伝統なんじゃなくて、商売としてながーく続けていけること。それが伝統を守るってことなんじゃないかな。
だってみんな、大堀相馬焼の特徴っていうと二重構造みたいなイメージあると思うけど、あれは大堀焼の300年の歴史の中で200年目くらいに出来たものなんだ。本当にここ100年位の話。それがいつの間にか伝統になってる。じゃあその前200年の大堀焼はどうしたのって話だよ!
でも、それがその時すごく『流行って売れた』んだ。その時必要とされていた。だから俺も「今」必要とされるものを作りたいよ。」

時代に求められるものを、今使ってもらえるものを作る。
陶器で作ったビアタンブラーやワイングラス(le mompe (ル・モンペ)シリーズ)は、思わず手に取りたくなる可愛いさ。郡山の土の素朴な色合いと青やピンクの顔料で出来たモンペ柄が、現代の食卓にささやかな喜びを与えてくれます。
福島県内の工芸作家仲間と相談しながら、伝統工芸品同士のコラボレーションで新たな作品作りにも取り組んでいます。郡山の土と会津産のケヤキを使った、あさか野焼と会津漆器のコラボタンブラーは、伝統工芸品同士が重なり合い、新しい工芸作品の形を提示してくれる一品です。

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初代あさか野窯から
志賀さんが大堀相馬焼の二重構造を応用し、独自に開発した空気穴のない完全密閉型の二重焼きをあさか野窯で再開発しました。大堀相馬焼の技術と伝統の先にありながらも、郡山独自の土の色を持った二重湯呑みはあさか野焼ならでは。地元浪江と大堀相馬焼、その50年の経験が新たな郡山の陶器「あさか野焼」を作っています。

「例えば江戸時代の焼き物っていうのは、地元で必要があって作ってた。運送も難しいし食器は生活に必要。だからその場所で、そこの土で焼く。作ってる方は多分、欲しい人がいるから作ってただけなんだよ。大堀相馬焼みたいな〇〇焼っていうのは自分の名乗るというよりも、地域の人が自然とつけてくれるもの。大堀で焼いてるから、大堀焼。愛称、愛情みたいなものを込めて地域の人はそう呼ぶ。
今は必ずしも地元で作る必要はないよね。俺があさか野焼やらなくたって、郡山の人は茶碗に困ってない。でもやってる。それは俺がやりたいから。それでも地域に根差した焼き物の出身だからね。ここは郡山だから、安積野(あさかの)だから、『あさか野焼』って名乗りたかったんだ。」
あさか野焼という新しい名前を名乗って、あさか野焼を作っていくことに楽しさややりがいを感じていると話す志賀さん。なかったものを0から調べて自分で組み立てていくこと。その精神が新たな伝統を作っていくのかもしれません。
「究極の目標は焼き物産地ではないこの場所で窯元を増やすってこと。産地っていうと大げさだけど、あさか野焼を名乗る仲間を増やすみたいなね。そうなったら良いなあっていうのが俺の夢。」

つながる

大堀相馬焼【岳堂窯】の16代目である志賀さんは、震災後、2014年5月に郡山へ移転し【あさか野窯】初代として新たな一歩を踏み出しました。浪江町から離れて大堀相馬焼を名乗るには抵抗がありましたが、大堀相馬焼としての伝統の灯を絶やしたくない思いと、地元に愛される焼き物を作っていきたいという強い思いから、昔からの地域の名称(あさか野)を使った、新たな窯元の初代として再開しました。これまで培ってきた大堀相馬焼の技法と、新天地である郡山の粘土を融合し、ゼロからのスタートで試行錯誤を重ねた結果、地域にはこれまでなかった新しい焼き物、作風を確立しました。テーブルウェアフェスティバル2017、及び2018に連続で出品し、多くの来場者から評価を受け、それを励みに日々新たな創作活動に情熱を燃やしています。

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